CJD

〇クロイツフェルトヤコブ病と闘う家族の為に
ある日突然、自分の家族に認知が始まったか、身体能力の急激な低下がはじまった。
そこで何の病気で何が起こっているかを知り、適切な対処に繋げ、家族はどうその病気に
向き合ったらよいのかを描いてみます。日々得られる知見と何もできない現実と向き合って
最後の時を過ごさせてあげなくてはならない日々の葛藤や選択について描いていきたいです。その中で、何か役に立てれば幸いです。


父のクロイッツフェルトヤコブ病との闘い

2014年夏、
 大田市場に、いっしょに花を見に行った際、私から「いくつになっても働きたいな」とか、話しを父としたことがある、その時父は、「流石、80歳を過ぎてくると身体が大変だよ」と言っていたことがある。弟の花屋に立っているのも大変なことがある。と言っていたことがある。父が親戚の大きな花屋から修行を終え東中野で花勇という花屋を初めて約50年。途中名店街通りは随分と栄えたことがありましたが、少子化と近隣の反映と大江戸線や JRの駅の導線が変化して、花屋があった商店街がいわゆるシャッター街となって、やむなく撤退してからも、弟と彼の嫁さんが営んでいる武蔵新田の花屋で手伝いをすることが、父の楽しみになっていた。
 もう一つ、何年も前からですが、上越高田にある先祖代々のお墓は、江戸時代からあるものが、ひいおじいさんが、父が小さい時に亡くなった時に再建されて今日に至ってます。もちろん戦前からのものなので70年以上経たものなので、素敵ですがかなり年季が入っているものとなってます。それを建て替えたいと言うのが父の10年前からの願いでした。しかし、石塔部分だけでも100万円、全部であれば200万円以上のお金がかかってしまうので、母には完全に否定されていて、それ以来、自分でアルバイトしたお金を貯めるように心がけていたようですが、それが生活費にまわっって中々、墓石再建に回らない現実もありました。
 そのお墓参りは、27年程前に、ここを見つけてから、続いてます。直江津を始め色々なところで海水浴したり、軽井沢、赤倉、黒姫、野沢などに泊まりながら毎年夏に楽しんできました。ただ、一人での運転は大変なため、最近は長男や次男も運転できるようになる以前より随分と楽になりました。

 2014年秋ごろに、
 たまには、都立庭園や公園で行っていないところに行こうと、父とは話をしていたが、中々実現できない。私は合氣道に、週3、4回稽古することが多くなったが、その合間に父と付き合う時間が取れなくなっている。今思うと、家族との触れ合いも大切な時間であることがわかります。全てが完全なまま時が立つのではないことを改めて実感しました。「無常」ですよね。私はと言えば、昨日まで、初孫のことで喜んでいました。ここでの無常は、月日が流れて全てのものが必ず変化して留まることを知らないということを改めて実感してしまいました。



10/20
 銀座にある手頃で美味しいフランス料理店「パリの朝市」で、私の家族および妹の家族で 81歳のお誕生日のお祝いの食事会を開催しました。若い長男夫婦が、銀座で買って来てくれた花束、多分父は若い時からずっと花屋なので花束は作っても貰ったことはなかったのか、とても嬉しそうでした。その花束を嬉しそうに覗き込む動作がなんかおかしい気がしたが、その後そのことを思い出すことはしばらくなかった。なんか、ボーとしていたのですが、私には何かのスイッチが入ったように感じました。

12月年末に、
 光が丘にある旧第一ホテルであったホテルカデンツア光が丘で、両親とうちの家族皆で集まってバイキング。食べる動作なのか、少し遅い氣もしたが、別段、氣にせず、花屋の手伝いで少し疲れているのかもしれないと思った。この頃から弟から、お店での花の作り方や接客の動作がどうも緩やかになって来ているという話があった。歳もとって来たので、目が悪くなったのか、 10年も20年も前から、踵が痛くて、長靴からスニーカーに替えたところが悪化したとか、いろいろと考えてみたが、腹に落ちる様な答えが出なかった。駅や住宅の近くで、転びやすくなって、階段を昇り降りが大変になったと聞く様になった。何故だろう。急にこの頃。もう少し老化現象はゆっくりとやってくるものと思っておりましたが、こんなにもドラスティックに変化するものなのでしょうか。

1/3
 毎年 1月2 日に、両親が正月の料理を食べに来る日、どうも食事の速度が遅いのが氣になった。駅まで歩いて帰る時、母と話しながら、少し歩くとかなり後方にゆっくりと歩いてくる父がいた。駅まで同じ様なことを数回繰り返しながら歩いてやっと辿り着いた。何かおかしい氣がした。足が痛いのか、どうしてそんなに急に動きが緩慢になってしまうのか意味がわからなかった。靴の紐がしっかり結べていなかった、今考えると結ぶことが出来にくくなっていたのだと思う。そこで、光が丘駅近くのLIVINやダイエーで、眼鏡とウォーキングシューズを買ってあげた。眼鏡は無理やりだったかもしれないが、ウォーキングシューズはたいそう喜び、帰りはそれを履いて上手く歩いていたので、これで問題は解決したと嬉しい気持ちでいっぱいであった。多分老眼が進み、靴も古く合わなくなって靴擦れが出来ていてと考えていました。

1月中に、
 旧地元 東中野にあるの「かんじ」という居酒屋さんに、東中野の花屋が無くなっても毎週のように、何年もお花を送り届けていた。道路沿いから階段を上った二階にある趣のある居酒屋さんである。ある日、お花を抱えて、花を届けに行った時、自動車を避けようとして、転んでしまい、眼の上から血を出して病院に駆け込んだ日がありました。もうこの頃から、父にとって花を配達したりすることは、大袈裟に言えば命がけだったのかもしれない。どんなにか、駅の上り下りの階段が大変であったか。何故、父は誰にもそれを言わずにいたのか、そのこと自身、とても恐ろしかったのではないのではないか。

その後も、色々なところで、左足が思うように効かずに転ぶようになりました。かんじにお花を運ぶのはおばあちゃんに任せて行ってもらうようになりました。

大好きな、花屋で立つ機会がある、弟の花屋は武蔵新田にあり、新江古田からは大門、浜松町、蒲田経由で通いましたが、次第に、階段が降りることができなくなったりしてきました、左手も定まらなくなって来てしまい、階段の手すりをつかまりながら、1時間のところを2時間かけていくようになり、心配になった母が一緒にいくようになり、又行く時は出来るだけエレベータを頻繁に使用するようになりました。身体能力が落ちてくると、エスカレーターに飛び乗ったり小走りに飛び降りたりしなくてはならなくなるので、高齢者や障害者は、さぞかし大変だなーと思うようになりました。

弟も歩き方がへんだし、右手のハサミは使えても、花を左手で押さえられない、お客さんから、左手でお金をうまくうけとれないというし、第 1、踵で歩いているといっている。日に日につるべ落としのように身体がうまくうごかないようになっている。私は相変わらず、ロコモティブシンドロームと思っていたが、弟は、症状からパーキンソン病ではないかと言い始めた。いつも通っている東中野の花屋からそうは離れていない子淀診療所に相談して大きな病院を紹介してもらおうかとも話をした。

1/15
 この頃から虫が見える、佇ずんでもいない人が玄関に立っていると言い始めた、幻視という現象だと聞く。こうなると、認知症なのか、ルビー小体認知症なのかなどと思ったが、 2014年10月から考えると凄いスピード。脳神経科に行くことが大事だと氣付き始めた。インターネットで検索して近くである程度の規模がある旧日大病院であった光が丘病院に受診し、CTを撮影したが、異常は見られなかった。あとから考えるとCT診断レベルではわからない事例も沢山あることがわかった。それさえ知らなかったことは、勉強不足だったと思い知ることになるとは思わなかった、この時点では。光が丘病院では、先生と設備が整っている順天堂大学病院の脳神経科を受診することになった。(アミロイドβが蓄積する認知症と脳内に正常でないタンパクが貯まる現象は同じ)

 順天堂大学練馬病院のCT検査は、ここでも測定できたが、異常は見られなかった。

2月いっぱいは、
 2週おきに検査は進んだが、何も悪いといという所見は出てこなかった。 MRIは更に2〜3週間待たなくてはならないとのこと。ここには素晴らしい能力のMRI設備があるとのこと。しかし検査に行ってから、1ヶ月も2ヶ月もたたないとMRIができないなんて!MRIを残して検査は終わった。大したことないのではないか、もしかしたら精神疾患を病んでいて、それは機器測定ではできないものではないのか、知人からそういうことも聞く。でもたいしたことなくてよかった。しかし、家でも外でも転んでばかり、弟の花屋に行くのが、大変になってきたので、初めは、おばあちゃんと一緒だったが、次第にそれもままならない状況に変化してきた。春になったら、都立公園や都立庭園に行きたいと言っていたが、このままでは、春を待たずに何処にも行けなくなってしまうのでは思うようになってきた。

3月初めの、週末の休みに
 夕飯を食べてゆったりと過ごしていた。突然、江古田の家から電話がかかってきた。母からであった。おじいちゃんが、風呂湯船で倒れこんで、起きない。自分には力がないので引っ張り出せない!どうにかしてほしいと泣きながらの訴えであった。冷静に考えれば救急車を呼ぶべきであったが、長男を連れて江古田へ、風呂の栓が抜けているのかかなり水位の低くなった湯船の中に氣を失って座り込んでいた。人の力では無理なので 2人で引っ張り出して、水を飲ましたり、団扇で煽り、布団を敷いて寝かせた。両足の甲には靴擦れなのか巨大なタコがあった。この状態ではうまく歩けないと思った。もしかして、手が不自由になって靴紐が締められなくなったからこうなったのかも知れない。この氣持ちを感じてあげられなかった父の動作の不具合をもっとよく感じてあげられなかったのが、今更ながら残念に思い悔やみました。後から考えると119番すればよかった。

3 /10
 MRI測定日 予約待ちで中々MRIが受けられなかったが、後日、東大病院ならば、早いとも聞いた。本当に東大病院なら早かったのだろうか。しかし、大学病院は軒並み3か月待ちと言われている。この現状を政府は知っているのだろうか。医療の現場は知っているのだろうか。皆は知っているのでしょうか。

3/ 2 
 順天堂の診察では、パーキンソン病の疑いは無くなった。一安心、それでは急激な手足の不自由さや、道や階段でひっくり返ってしまうのは解せない。筋肉が動かなくなるのは、ロコモティブシンドロームか、ルビー小体認知症なのか、やっとMR I測定ができた。CTや各種測定を行ってもなんにもなかった。結局、検査をしても原因がわからない人が多いので、認知証か、神経障害か障害を自覚するも原因がわからないケースが多いと話を聞きます。


3/16
 順天堂大学病院のMRI結果の日、無情にも弧発型クロイッツフェルトヤコブ病にほぼ間違い無いと話しをするM先生、可哀想にという顔で通りすぎる看護婦さんたち(と私は感じてしまった)。脳のMRI影像、特に脳の辺縁部が白くなった映像を見せられて説明が始まった。その中でも右脳が著しく白く、左側半分の身体能力全体が低下し身体が動かなくなってきている理由を説明された。更にこれが左脳に移っていくと記憶や思考ができなくなるとも話しがあった。「そうなるまで、2週間から3ヶ月。 」。最低、「2週間って、どういうことなのか。」先生は何をおっしゃっているのか一瞬理解できませんでした。病気はうつらないこと、難病であること、植物人間になって生きさせ続ける意味が無いとも注意されておりました。脳内の自分のタンパク質の三次元構造が連鎖的に変わっていってしまう病気で難病中の難病と優しくご説明されていた。

 真正直に正直に生きてきた、優しい父の最後にかかる病気が100 万人に 1人がかかる病気とはたまげてしまいました。結局、感度のいいMRIをやらないとなにもわからないとのことでなのです。予約待ちで2ヶ月、地元の小淀診療所で昔のお客さんと世間話をするほうがいいといっていた父であるが、まさか東中野に行けないくらいの身体能力になってしまうなんて夢にも思っていなかった。この病院のことではなく、一般論として、日本の医療は何なんでしょうか。2-3か月検査待ちをして、お気の毒に、最後は最高難度の難病ですと告知。慢性的なMRI不足に少し憤りを感じました。(病気が疑われるお家の方へ、MRI検査だけ優先してください。CT検査は残念ながら何回やっても意味が無いようです。)


「父、勇作さん、お父さん、おじいちゃん。大丈夫か。」


3/21土曜日
 庭の湯の温泉治療とリフレの尊敬するべきYさんの足揉み手能を改善できないかという無謀な対策を実行しようと考えて、父を庭の湯に連れて行く決意をした。庭の湯 バーデプール では、風邪引くと言って外には出ない、筋肉が衰えて軽くなっているのか、プールで立っていても、歩いていても、座っていても浮いて来て安定しない。庭の湯の庭には、黄色いヒューガミズキや赤い椿が咲いており、花の名前を父にたずねると花の名を正確に教えてくれました。その後、シャワー室で身体と頭を洗ってあげて、炭酸泉に入り、脱衣所へ、脱衣所では椅子に座って着替えますが、靴下以外はお手伝いがいります。

リフレクソロジーの信頼しているYさんに足を揉んでもらいました。右脳と小脳、脚が凝っているといわれました(びっくり)。更にお茶を飲んで、その階にある食事処に、座敷は大変なので椅子のあるテ -ブルで食事、春らしい蕎麦とちらし寿司、お吸物、茶碗蒸しのセットをたのむ。蕎麦は完食、チラシは 1/4 程度を食べて、歩きと大江戸線で帰宅。住宅の三階への階段は、少しきつそうになってきましたが、自力プラス少し背中や腰を押すことにより 3階までたどり着く。母は少し手が放せたので嬉しそうに何回も連れてってねと私に頼んでいました。ただ、この時点でも、三階までの階段の昇り降りは大変で、まるで 40度以上の角度の山に補助ロープで大袈裟に登っていく様な格好をするようになりました。2度とこんな形で、いっしょに歩いて外出することが無いなんて、しかし微かな不安も感じていたことでした。

残念なことに、父が自分の足で自主的に 歩いて外出できたのは、この日が最後でした。


3/28土曜日、
  妹と妹の24 歳の三男と妻とで、父に最後となるかもしれない桜を見せてあげたくてに浜離宮恩賜庭園に、行きました。初めて車椅子での外出でした。優しく押せる妹の時は大丈夫ですが、私が車椅子を押す時は、後ろ向きにガタガタと強い振動が伝わってしまい、両手を上げて怖い怖いと言いました。日本庭園は大きな自然石多く、通路は、玉砂利敷き詰められているので車椅子の抵抗が大きく疲れました。日本庭園は、車椅子での見学向きではないのかもしれませんことがよくわかりました。健康だと考えも及ばないことです。(東京都さん、改善していただくとありがたいです。)
 枝垂れ桜ではありませんが、車椅子目線まで枝が大きく垂れている山桜があり、たぶん本人は感動だったと思います。また菜の花が一面に咲いているコーナーでは車椅子目線の高さでも十分感動的だったと思います。最後に車椅子から降りてもらいベンチで父と母並んで写真を撮りました。私の大切なハンチング帽をプレゼントして被ってもらいました。理由は昨日家の中で、昼間1人で歩いていて倒れて目の周りにアザができてしまったからです。

 いづれにしても、車椅子の高さの目の前に垂れ下がっていた山桜と、そこら一面に咲き誇っていた菜の花は感動でした。最後の花見かもしれないし、公園かもしれません。


4/5日曜日、
 合氣道でお世話になっている恩師にも、自宅に来ていただき氣圧法を実施していただいた。先生の氣圧法は過去にすでに実感しているのでお願いしました。頭部を中心に 1時間以上施術していただくと、力も入れていないのに頭から離れた位置の手や足がピクピクと動くのが確認できました。寝たきり状態に近くなってきていたものが 1人で2日~3日は部屋の中を歩いていいました。先生の氣圧と庭の湯のYさんのリフレで一ヶ月くらいは延命された様な氣がしました。治療法が全くない以上検査や介護を普通にしていても、座して待つのは嫌だと思うし、すがるわけではないが、何か前に進むことができればと思った。先生が帰り際、介護中の疲れた母の背中をさわってくれたたら、終わったらじわじわと何かが広がっていく様な心地良おい気持ちになり、肩や肩甲骨の凝りが無くなったと母の弁、それ以来毎日の様に私が会社の帰りに父の東武に氣圧法をすることにしました。

4/8
 難病公費申請, ほぼ確定という順天堂大学練馬病院の診断書に基づいて申請しました。認可は、6月中頃の予定、そこまでもつのだろうか心配である。難病に対して後から帰ってくるとはいえ対応が悠長なような気がした。

4/20
 介護認定が4/20に介護度3で認定を受けたが、立ても自力では全く歩けもしない状態で介護3の評価をもらったことには皆が落胆した。寝たきりで歩くことも出来ない状態で介護3とは何を見てそう評価しているのか。

 翌日ケアマネにお願いして、区分申請をし、4/28日に調査員が訪問。結果5/21日に介護5の認定であったが、そこまで待たなくては、本来の評価がされなかったことはしょうがなかったことなのでしょうか。


妹の話しを少し挟みます。
 『これは書いていいかわからないけどね、4/20頃ね、じいちゃんがばあちゃんには内緒だけど、じいちゃんが立ち上がりに時間がかかったり、トイレになどうまくいかないと頭や脚を叩いたりするんだよ。と言ったいた。これには心が痛かった。』後で、おばあちゃんに聞いても叩いたこと無いと言っている。真実は、どちらかわからないけども、小さい時よく母に叩かれながら勉強や習い事や宿題をお店のテーブルでやっていた時、よく叩かれた氣億があるが、それと同じだったのかもしれない。それだけ懸命なのだろうと思う。


4/29
 家族でカーシェアレンタカーでトヨタプリウスを借りて神代植物公園へ、もしかしたら、車椅子でもお出かけは最後かと思っていた。しかし、あっさり母はもういらないと、とっととリースの車椅子を返してしまった。一方、神代は車椅子が 20台常備されており、車椅子でも移動が可能な3か所の先進的な都立公園の1つであることから、お花を見に、長男夫婦、妻、母と行きました。
 シャクナゲ、鮮やかで豪華な牡丹、藤の花、ハンカチの木、ニュートンの木の挿し木、ツツジ、ベニバナトチノキなどを、車椅子に乗って鑑賞、芍薬や牡丹は、車椅子に乗っての目線でも目前に鑑賞できて喜んでいました。
父にととっては、初のhybridプリウス乗車で喜んでいました。

5/6 午前中、
 新宿御苑に一人で、接写用のハンディデジカメを持って新宿御苑に出かけて、自宅に戻る。当初の2時から3時に在宅医療のO医師が来られるとのことで、ゆっくりすることにしたが、30分早めてくれと電話があり、慌てて江古田に向かうことにしました。

 在宅医療の主治医の先生は、SクリニックO先生という女医さんである。家族の中では美人の評判高い先生で優しい先生である。やはり、治療方法が無いので、感染症の殺菌剤、便秘の薬、幻影を見ないですむ薬、ガタガタと時々やってくる痙攣を緩和してくれる薬を丁寧に見ながら処方してくれる。先生もいい人だし、在宅医療もいいシステムだともう。先生に余命をお聞きしたところ、6月中頃から末に無動無言になる可能性があるともおっしゃっていた。母には後でこっそりとそれを告げて、覚悟するように話をした。先生との話で、容態が今更ながら未だ坂を転げ落ちるように変わっている為、毎週来てもらうことにした。またヘルパーさん、看護士の方々を効率的に手配して、オムツ変え、お風呂、体拭きなどに来て、もはや、自律的に歩けないし、母も支えられない以上当然の選択だったと思います。

5/12
 父と叔母の頼みから、毎年行っている新潟県上越市金谷山の旧高田藩藩士の墓地、現在は一般公募も受けている墓地にある西田家先祖代々のお墓に行ってきました。千葉県市川市にお墓を戦後移した関係上、20年程前に、無縁になる寸前であったお墓を見つけて以来毎年夏に、避暑や海水浴を兼ねて出かけます。以前会社の保養施設が妙高高原にあったこともあり、家族の間では毎年夏の行事でした。
 その墓地を見つける時は、近くに大きな石碑と池と松があったという父の少年時代の記憶だけで私達家族がやっとの思いで探し当てたお墓でした。
ここで14 代続く真野石材さんとお会いして、お墓の注文をしました。墓石は黒御影石となる予定です。必ず父の意識のある内にどうにかしてあげたいとおもいます。また北陸新幹線の3月の半ばに開通したばかりです。上越妙高駅前の日本レンタカーで予約をして、ハイブリットカーを借りて、お墓まで10分くらいで辿り着ける距離となり、東京駅から2時間 15分くらいで、金谷山の墓地に行くことが出来るようになりました。 この日は、在宅医療の日で先生が来られるため、妹が実家に来ていて、また一ヶ月ぶりに会いに来た弟夫婦も来ていたようです。 LINEで弟と妹が会話しているところを見ておりましたが、その変化に驚きを隠せない程だった様です。毎日見ているとわかりませんが、間隔を開けて会うとそうなるのでしょうか。

 父の弟、つまり、おじさん達が2人、この様に急激に容態が変わってきたのでとお話しを電話で差し上げたら、次の日にお二人共会いに来てくださいました。達蔵おじさんと、史郎おじさんです。まだ介護用のベッドが入らない時期だったので、布団にまるでカエルを潰した様に顔をお見舞いに来てくれた方だけに向けて、話しをしていかれたのも、さぞかしショックだったのではないでしょうか。家族としてもなにが起こっているかわからない様なテンポの変化においつて行くのがやっとだった2ヶ月間より早くはお呼びできなかったけども、せめて介護ベッドが導入されていればどんなにかその印象が違っていたかと思うと少しすまないというか複雑になってしまう。

 亮子おばちゃんも、お墓に行った帰りのレンタカーの車中でそんなことを話していた。

5/20
 胃瘻の話がO医師からありました。母も、父も、妹も覚悟を決めたようです。栄養が十分に取れない、誤嚥防止であり、延命では無く、意識がある時には、十分栄養を摂取し、かつ肺に液体が入るのを防ごうというものである。確かに、歯みがきしても、うがいの水が、うまく吐き出す事が出来なくなって来て、ハミガキの最後はものすごくむせてしまうという悪循環に陥っているので、少しずつ必要性が理解できてきました。手足をバタつかせて、それが止まらなくなってしまう現象は 3月初めから続いている。また、テレビを見てお辞儀をしたり笑ったりする。それは、テレビ画面の中のタレントやアナウンサーの動きに合わせていることもわかってきました。一昨日来た甥っ子のじゅんくんの事は覚えていないようだ。新しい、記憶が定着形成されにくいのが特徴なのかもしれない。
 ストローで、本人が飲み物を飲もうとしても、中々ストローを吸うことが難しくなっている。最近、父は少しわがままを言って少し怒りっぽいようだと母は言っています。自分の先行きが不安でしょうがないのではないのではないか。何か紛らわすので無く、心の平和を創出させてあげられないだろうか。



妹の話しを少し挟みます
『あと、5月の中頃から言葉のコミュニケーションが取りずらくなってきたんだけど、5/20、往診の日に午前中一人でじいちゃんがいたときにね、話した。その前日から発熱して抗生剤を服用。 私の名前がでてこない。だけどムスメだと言った。熱があるねと額を触ったら、心配しなくても大丈夫だよ。と言った。こんな自分の状態よりも、私の事を想ってくれる父の言葉に涙が止まらなかった。なんで泣くのかと父にいわれた。大好きだからと伝えた。じいちゃんは本当に強い人だ。そして慈しみに溢れる人だね。』


5/21
 介護認定5の評価が郵便で知らされた、母がそれを見て喜んでいたのが、その日は、とても印象的でした。過去、東中野で近所のおばあさんを介護していた時と比較して何故と言う思いがあったのであろうと思った。その日以降、ヘルパーさんたちが来るたび、記録用紙の変更をして介護度5にしていたようです。そのまえからでしたが、機動的な、お医者さんの訪問、ヘルパーさんや看護師さん、お風呂入浴訪問が本格化して、随分と家族は助かりました。しかし、朝から夕方までの訪問により母の自由時間の拘束があり、シルバー人材の仕事、買物、銀行などの時間がとれず、中々うまくいかないものだと思いました。


5/23
 どうやら、江古田の家は、父に何回聞いても、病院だという、妹がそんな事を言っていたので、試しに話をしてみたが、病院だと言う。見覚えのないレンタルの介護ベッドしか見えないのだろうか、いつものテレビも見ているし、写真や犬のマークがいる事もわかっている。しかし、家ではないといいはる。しかし、病院は嫌だという。なんか矛盾。試しに虫はもう見えないか来てみたら、沢山いるという、ショックだが嘘ではないだろう、まだ幻視が見えるのか。
 プリオンが脳中で変化していく中で、色々な記憶が失われていくのだろうか、現在記憶が定着しにくいのは分かった。しかし、認知症とは、MRIの画像で明るくなるところが同じなのだろうか。でも、そこは、かなり違うらしい。10倍速の認知症だとすると同じ事が起こっても不思議ではない。本当は、何が見えているのだろうか。里美によると、父はもういいよといったらしい。こと胃瘻については、先行き無いしもういいと言っていると言う。本当だろうか。生きるのを諦めたら病気が一気に進む危険もある。気にかかる。心配である。


父の病名は、英語でなんて言うの?
Creutzfeldt-Jakob disease
Creutzfeldt-Jakob syndrome

5/27
 会社の午後半休を取ってO先生が来て胃ろう増設の手術の話をすることになっているので、江古田の実家へ。初めは嫌だと言っていたけども、点滴の注射や点滴を入れる頚動脈への取り付けは病院で行わなくてはならず、こちらは、すこし痛いという話を父が聞いていて、やはり胃ろう増設がいいと言うことになり、早ければ来週の火曜日になるかもしれないということになりました。

ここら辺から、息子達には、実家のミニチュアダックスフントのマークが昼間全く散歩に連れて行ってもらっていないことに気づき、時間があったら連れて行ってと頼むようにしました。私だけでは夜ついでに夜五分ぐらい連れて行ってあげることぐらいしか出来ないのが現状でした。また、老犬になって自発的にうんちが出来なくなったマークは、犬猫病院に5日おきにおじいちゃんが、この状況になりおばあちゃんが連れて行くようになって、負担が増えてきたので、や次男にも、空いたときに行ってもらうようにしてもらうようにしました。
また、家で頼んでいる生協の食材で卵を頼んで、父の卵かけご飯にします。ジェル状のサプリや水ものはいいのですが、中々入らなくなってきています。


5/30-6/2
 どうやら、胃ろう増設手術先である総合病院の受け入れでもめているようです。病院の中でのガイドラインということらしい。胃ろう増設の手術をしなくては、どんどん痩せていくのと、誤嚥で若干の水分が肺に入っているとのことから急いで欲しい事は先生に伝えた。中野総合病院がだめなときは順天堂大学練馬病院との知らせが来たが、長引いてむかついていたのは母であった。

 Sクリニックから中野総合病院に決まりました。入院は三日でなく一週間と言われた次の日に、母は急に胃ろう増設手術はまっぴらごめんと、急に意見を翻してしまいました。待たされ、入院日数は伸びるし、病院におじいちゃんを取られると思ったのでしょうか、少しでも自分が見ていたいと思ったのでしょうか。二十分の簡単な手術で、2〜3日で戻ってくることができると言われたが、実は大変な手術でおじいちゃんが帰ってこないのではないかと母は考えたのだろうか。
 ここに至ってそれはあり得ないと思い、いっしょにいる妹も困り果てて、会社出勤中の私の携帯に電話を架けてきました。その日はO先生の診察なので、もう一度説明して母の不安を払拭いて欲しいとメールで頼んで、先生は懇切丁寧にご説明されて十日に総合病院に入院手術することとなりました。


 Sクリニックはきっと全力を尽くして調整されているのだろう。しかし、肉嫌いで飛行機を乗ったこともない人が、突然プリオン病という病気になるのか? また偶然、難病になった人は、どう扱ってもらえるのかしらという思いもあります。私の兄弟も私の息子達も皆、生まれる時、この総合病院にお世話になり、私は外科には今でもお世話になっている総合病院、尊敬する新渡戸稲造さんが創られた中野総合病院、なのに前例が無いからと言ってやはり断られるのかと思うと少し寂しかった。客観的には、医療従事者の方々のリスクを思うと確かにそういうこともあるかもしれないが、家族としては納得がいかない。

6/3
 しかし、前例のない受け入れを、中野総合病院は決断してくれました。余命僅かな患者のために、リスクを負って決断してくださった病院と医療従事者の方々に感謝です。

 最近、ブルーバックスの「プリオン説は本当か?」「タンパク質の反乱」を読みました。クロイッツフェルトヤコブ病は、αヘリックスの多いタンパク質が変質して、βプリーツの多いタンパク質に変化するのが、定説と説明されていましたが、同じアミノ酸構造ならば、最安定な形しか取りえないのに、なぜ悪いタンパクに変化して蓄積するのだろうか。確かにβ方が多い方が疎水性相互作用やファンデルワールス力が強くなるのかもしれないが、理解しきれないところがあることが、本を読み進む内にはっきりしてきました。知識だけでは、何もなりませんが、今頼れるのは、氣圧法と乳酸菌しかない、またせめて歯を磨いてあげるしか、さらに上越の墓石石塔を再建してあげるしかできないことに無力さを感じます。

6/10
 胃瘻造設のため、綜合病院入院。車椅子とストレッチャーを使って三階から降ろし、高級タクシーに乗せて中野綜合病院へ、少し振動があるだけでガタガタとういう痙攣が起こり大変だったようです。


6/14
 母と一緒に、石塔が再建できた、新潟県上越市金谷山にある旧高田藩藩士の墓を訪ね、その完成を確認しました。そこでは、真野石材の社長さんが来ていて、完成の概要をザッと説明してくれました。いい人です。行きは、東京発6時50分の北陸新幹線はくたかに乗り、9時46分に上越妙高に到着し、駅前から日本レンタカーを借りて金谷山まで7分です。立派な黒御影石の石塔で土台はグレイの地石でできていて、広さは、通常一畳のところが、江戸時代からあるので、今の規格より広い2、5畳分となっている。残り1.5畳を広いため、お祈りできる場所に当てることができました。
 また、石塔の途中に入れる蓮華は、上越市では、はやりかもしれないけども、必要なしと我が家でははずさせてもらいました。結局、蓮華部分は無くてスッキリしてました。勿論、真野石材さんにも感謝です。お昼は、上越妙高駅でとり、3時半には東京に戻って来て、直接中野総合病院にお見舞いに駆けつけました。


6/20
 江古田の家に家族全員が集合しました。父は嬉しそうです。初ひ孫のこと、石塔が再建されたこと全部はっきりと理解しておりました。ハミガキと頭部への氣圧法が依然おして、私の仕事です。過去の写真アルバムを眺めて、久しぶりに集合した弟と妹も何か楽しそうでした。いいことです。

6/21
 日曜日ですが、胃ろうが出来ているかどうか見ながら、私は父に対して氣圧と歯磨きをしてきました。もしかしたら、胃ろうによる栄養で少し思考が明晰になっている氣がしました。頭ははっきりしているようです。

6/25
 やはり、客観的に見れば運動能力や言葉は随分と難しい状態になってしまいました。

 文献検索をして唯一、面白い結果が出たのは、CuクロロフィリンNaである。既に、食品添加物の緑色の色素として、ガムをはじめ多数の食物の添加剤として何十年も食経験のある物質である。防臭成分として胃ろう最後に希釈した状態で洗浄液と一緒に注入してみることにしました。
気圧法とこれが唯一、難病への抵抗である、どれだけ抵抗できるか挑戦していきたいと思っています。(亡くなる間際まで、CuクロロフィリンNaを胃瘻洗浄水ととも薄くして入れていたことをお話ししていなかったことは申し訳ないと思ってました。)

6/27
 今日は有休休暇をとったので、午前中病院に行った帰り、江古田に寄ってみた。新旧の看護士さんと胃ろうや痰の吸入器取り扱いができるヘルパーさんがちょうど来ていました。今日まで排便処理を担当していただいた看護士さんは、Sクリニックの事業変更で本日が家に来る最後の日となってしまいました(どうして?)。最後の作業を丁寧にきちんと、まるでまた来てくれるかのような雰囲気で終了してくれました。若いのにとてもしっかりした仕事をする方であることがわかりました。ありがとうございました。感謝です。

 先日8冊ほど、図書館からプリオン病に関する本を借りました。その中で、私の頭にすーと入ってきた説明が書いてあったのは、岩波書店 金子清俊著 「プリオン病の謎に挑む」でした。感染型プリオンタンパク質が、人工合成ペプチド中で一定条件下で、正常型プリオンタンパク質から変化することを確認したという研究を紹介していました。やはりこういうことがおこるのかという衝撃でこの本を読みました。筆者とプルシナー教授との研究素晴らしいものであり、何か将来成果がでればと期待しながら読まさせてもらいました。

 8/19-9/5誤嚥性肺炎で中野総合病院入院
 意外に怖い誤嚥性肺炎。
昨日、午前中に父の呼吸が変ということで、酸素量を測定。いつもは99%の値であるが、昨日は92以下で、顔色が少し小さいのと、声をかけてもすぐ目をつぶってしまいました。心持顔色が白い。在宅医療のお医者さんが看護士の連絡で来てくれて確認。その後、救急車を呼ぶように指示されて119番.
N野総合病院に緊急入院しました。昨日はレントゲンと CTで肺の状態を確認して即入院決定となりました。本日母とお見舞いに行きましたが、その数値は97までに回復。よかったです。顔色も肌色っぽくなりましたが面会時間は10分以内。原因は、3,4日前に胃ろう栄養を少し多めに医師の判断のもとに増やしたら、少し上げてしまった。それが肺に入ったのか?私が上げていた OS-1ゲルの口からの投与がいけなかったのだろうか。結構難しい状況に入ってきた感じがしています。

  9/1 先生から携帯に電話
 丁度、秋葉原駅に向かい総武線に乗っているとき、総合病院から電話がかかってきました。月末に、肺炎で入院していた際に、看護婦さんに申し込んでおいた件です。クロイッツフェルトヤコブ病の発展のため、中野総合病院で胃瘻造設の際に、長崎大学医学部と東北大医学部で骨髄液のタンパク質検査と遺伝子解析を承諾しました。内容は検査に協力して欲しい(勿論、本人と家族の意志で)、その検査結果は研究のためで、その使用は提供側に帰属しないで長崎大学や東北大学に帰属するというものでした。そんなことぐらいで、詳細情報が検査できて、人の役に立つのならと思い、即決で同意しました。
 結果は、中野総合病院には7月27日にはどうやら中野総合病院には報告がきていたようでした。MRI結果に加え、前回長崎大学の蛋白14-3-3及び14tau蛋白の上昇から、クロイッツフェルトヤコブ病と断定しておりました。また今回の結果からは、弧発性ではなく、遺伝性でありcodon180のバリンがロイシンになっているという事実を知らされました。弧発性より日本では発症率は低いとのことでしたが、流石、遺伝子を自分や自分の子孫が持つ可能性があることに考えが及びショックでした。何故遺伝性なのか答えの出ない質問を自分自身に何回も何回もしていまいました。しかし、答えは自分自身からは、返ってきませんでした。でも発症率は100万分の1ですと言われました。後に150年ほど戸籍や家系を遡りましたが、該当の病にかかった方はどうやらいなかったようです)。

 順天堂堂大学病院で父がクロイッツフェルトヤコブ病と宣告されて約4ヶ月。無動・無言になるのは、長くて3ヶ月後、それは6月末でした。
勿論、母の看護が一番であると思いますが、難病で治療法が何も無いと言われ、ただその日を待つだけとわかってから私がうった手は、
1)リフレのプロに脳の部分の凝りをほぐしてもった。 
2)氣圧法の尊敬する先生に頭部分を氣圧して頂いた(その後、毎日私自身が氣圧法をおこなう)。
3)銅クロロフィリンナトリウム(日本葉緑素製食品添加物クロロン G希釈し経口投与・・・理研の論文で、in  vitroで過去に効果があったと言われている)。
です。 

 現在身体的には、介護5レベルですが、胃ろう増設後、元氣が出てきて、家族とは短い会話ができるようになってきたことである。

 しかし、毎日胃ろうの食事と痰取りを一人で行っている母も疲れてきたようなので、介護の体制を母が余り手出しをしないでもすむ方向に舵ををきります。どこまで100万人に1人の難病に対抗し闘い続けることができるのか(1日でも長くでいいから)。静かな闘志を燃やしています。


10月中頃 
 東京都保健局から難病指定の書類がやっときました。このような足の速い難病では、数週間でなくなることもあると聞きます。途中、Sクリニックから提出してもらった書類が不備と言われた。順天堂大学病院のMRI結果と診断及びセカンドオピニオンのさくらクリニックの診断があって、慣れた先生に作成して頂いたにも関わらず途中で問合せたらいわれて、髄液の検査結果がたまたま、胃瘻造設の時に行っていたので提出でき、しかし亡くなるまでには間に合わなかったので、その後妹が都庁に問合せたらよくわからないことをいていたので、クレーム課に繋いでと言ったら調べ始め、もう認可されているので、近々お知らせするとの事でした。
 大したご対応につき、おみそれしてしまいました。難病指定でお金を出したくないなら、難病指定制度などいっそ作らない方がスッキリするのではないかとも思う。そんなふうにも勘ぐってしまうことでした。難病でもあっという間に逝ってしまう病気に、認可してもらっても、僅かな期間なので、そんな大金にもならない治療費の件で、ただでも負担のかかっている家族の苦労やストレスを増加させる制度にはなっていないことを心から望みます。


9月12日土曜日 

 息子の匡志夫婦が、あかちゃんを連れて江古田の自宅訪問。あかちゃんの名前はゆずちゃんで、父にはひ孫になります。会った瞬間、うおーとほとんど言葉を発していなかった父から大きなこえの言葉が出てきました。多分、ひ孫のゆずちゃんと判ったんだと確信しました。しばらくニコニコしてひ孫の、ゆずちゃんを見ていました。

9月19日土曜日
 シルバーウイークという聞きなれない連休の初日、しばらくおじいちゃんは長生きするだろうという、さくらクリニックの見立て、酸素吸入器や耳鼻科で使う喉吸入器レンタル機器が届いた。買取の方が何ヶ月も使うと安いとの事だが、念のためリースにした。この頃2、3日呼吸のゼイゼイする音が心もち大きかもしれない。看護師さんは朝きた方は、熱や酸素量で変化があったらクリニックに電話をかけるように言って帰った。熱は平熱、酸素量も98で問題なく、三時ごろに訪問入浴の看護士さんが測定しても同じ状況で、入浴はできることになった。先週は、少し熱があったので入浴できなかったが、結果的に入浴できて、父はとても嬉しそうでした。
 今考えると、熱はなくても、寝汗のかかない父がこの2日ぐらい寝汗をかいたと母は言っていた。解熱剤で封じ込めていたが熱はあったのかもしれない。でも、嬉しそうな顔で風呂に入った父を見て私も母も満足だった。入浴後にいつものたわいもない話と、好きだったプロレス技を見せてあげて、少し脅かして、また明日来るねと父に告げて家に帰った。その時、うんうんと父も頷いていた。それはアイコンタクトからもよくわかった。今日から連休なので、久しぶりに午前11時から午後4時までいて、また明日も明後日も毎日来て、氣圧や歯磨き、ヨーグルトジュースを少々湿らせてあげようと思い光が丘に帰っって行きました。

9月20日
 昨晩は、いつもより痰をとってあげあたおばあちゃんは、9時すぎには、就寝。夜中二時過ぎに、犬のマークが騒がしいので起きてしまった母、少し息が苦しそうなので妹に電話をかけて、妹とおじいちゃんが話をして、最後にあ〜って言って電話ををきり、間もなく、目をカッと一瞬見開いた後、息がなくなっったようでした。
 息がないようだ、青くなってきている、腕に斑点が出てきたどうしようと電話が母からあり、3時頃には江古田の住宅に付いた、次男の武蔵と一緒に来たが、もう動かなくなっているおじいちゃんの鼻に吸入器で酸素をおくってあげたがすでに手遅れであった。
 携帯の懐中電灯で武蔵が瞳孔変化を見たが変化がなく、脈拍もなく、体温は35℃、酸素濃度は、まだを切っていなかった。まだ少しからだの温もりは残っていた。不思議に悲しいという感情は湧いてこなかった。臨終に間に合わなかったという悔いも残らなかった。
 自分達の前でベッドに横たわる父はもう動かない、感情も感覚も停止してしまった父が横たわっていた。苦しかったのか、口は開けっ放しになっていた。今思えば死後硬直が起こる前に閉じてあげればよかった。
 それからさくらクリニックに電話をして当直の宮本先生に来てもらったのは、午前4時前に来てもらった。定型の検診を済ませて、書類に、4時10分クロイッツフェルトヤコブ病による呼吸不全により死亡と記されて、病院へ戻って行った。こんな朝早くすまなかっったという思いはあった。
 そこからは、登録していた小さなお葬式に電話して、怒涛のシルバーウイークを過ごしました。担当の方が先の案件があり、すぐには来てもらえませんでした。

 弟の花屋のお彼岸もあり23日にお通夜、24日に告別式を催しました。


 父の告別式が終わる際の挨拶は兄弟は泣いていましたが、私は涙はこらえて流しませんでした。形式ばかりの挨拶を済ませました。しかし、会場の所狭しとなる花でいっぱいとなりました。今まで何百基も作ってきたお葬式の花が今は父自身のために飾られていました。明るい色の花も少し足して更に賑やかにしてあげました。お棺には、花屋さんらしくたくさんの花を入れてあげました。火葬場から戻ってきての親戚への最後の挨拶は形式的な紙を読み上げるのを途中で切り上げて、自分の気持ちと父に起こったことを自分の言葉で親戚皆に知らせました。

 四十九日には、本人が臨んでいた再建した上越のお墓に納骨してあげました。今でも総合病院とSクリニックには心から感謝してます。

 会社の帰りに毎日のように氣圧、歯磨き、着替え、おトイレや食事のために母と闘った日々は忘れません。また、多少の後悔はありますが、全力は尽くしたと思います。

 いつかは、この難病も治療法が確立出来ることを心から望んで筆を置きます。


                                        Y.Nishida